ミラーマッチ
僕の最も古い記憶は、父の勤めていた会社の社宅からだ。
5階建ての団地で2LDK。集合倉庫もあった。
父は長距離トラックの運転手だった。
日の出る前に家を出て、夜遅くに帰ってくる、もしくは帰ってこない。
一度、父の帰宅に出くわした時、「おじさんだれ?」と聞いたことがあった。
その時の顛末は覚えていない。この記憶も怪しい。本当に誰だったのか。
風呂場にマーブル模様の細い貝殻が何本か落ちてた。
母はそれを「ウニの針だよ」と教えてくれた。
一度、大量のアカハライモリが風呂釜を占拠したことがある。
父のしたことだ。
一度、大量のカタツムリが風呂釜を占拠したことがある。
僕のしたことだ。
卵かけご飯が好きだった。ただし生卵アレルギーだった。
ある晩、母に卵かけご飯をねだったら、卵かけご飯に混ぜる形で、
腐ったイクラを食わされた。発熱、嘔吐、下痢、目眩。
僕は今でも、イクラは食べられない。
友達は何人かいた。
友達とは呼べないかもしれない。
毎日遊ぶほどではなかった。
まじゃりんこシールをたくさん持った子、
キン肉マン消しゴムをたくさん持った子、
大きな超合金ロボを持った子、
名前も顔も思い出せないし、おそらく当時も名前を覚えられていなかったと思う。
僕が知らないもの、僕よりも高価そうなものを持っているのが羨ましかった。
会話らしい会話をした覚えはなかった。
質問や応答の記憶はない。ルールのある遊びの記憶もあまりない。
自慢話とロールプレイだけだったったと思う。
子供なんてそんなものかもしれない。
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母は美容師だった。
団地から自転車で10分ほど離れた長屋の貸店舗に自分の美容院を開いていた。
従業員はいない。
貸店舗は住居スペース付きだった。風呂もトイレもあった。
僕は日中、ほぼ、その住居スペースで一人で過ごした。
60冊くらいの「まんが日本むかし話」のフィルムブック。
リブロック。家具を合体させた白いロボット。雑多なオモチャ群。
一人でずっと遊んでいた。
一度、お昼に2件隣の店舗にあるラーメン屋へ行かされた。
母は僕に1,000円を握らせ、一人で行けと言った。
ラーメン屋が驚き困ったのは、なんとなく覚えている。
保育園に行っていた時期もあった。
美容院の向かいまでバスが来ていた。
バスに乗って寺の名前を掲げた保育園に通っていた。
友達はいなかった。顔と名前が覚えられなかった。
緑の鼻血を出した子がいた。
みんなで行った保育園の隣の草っぱらで、シロツメクサの冠を上手に作る子がいて羨ましかった。
その保育園も卒園前に、いつからか行かなくなった。
理由は覚えていない。
貸店舗の裏には砂利の空き地があり、一人で自転車の練習をした。
母は、最初だけ10分ほど手伝ってくれた。結局一人で乗れるようになった。
一度、母のヒステリーで店を追い出され、鍵を締められたことがある。
一度だけだと思うが、裏から窓を登って部屋に入った記憶と、
自分は悪くないと思いながらも泣きながら大声で謝った記憶と、
二種類あるので、二度あったのかもしれない。
母の美容院で客がいた記憶は2度程だ。
長屋貸店舗の向かい側に平屋タイプのアパート群があった。
手前から二番目の部屋に同年代の姉妹が住んでいた。
彼女らの父親は背中に色付きの入れ墨があった。
その父親にオモチャの手錠をかけられたことがあった。
ニヤニヤしながらだったか、鍵を窓の外に投げられた気もする。
大人なのにどうしてこんな酷いことをするんだろう、大人なのに子供相手にこんなことして恥ずかしくないのだろうか、と悲しくなった。
取り立ててなにも言えず、リアクションも取れず、じっと困っていたら、
外してくれたのだと思う。覚えていない。
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父と母は、毎晩、口論した。
父の帰宅時間が、僕の就寝よりも早かった日は必ず口論した。
口論で目が覚めた事もあったから、毎晩だったのだろう。
口論の具体的な内容は覚えていないが、父は理想とそぐわない母の行動があった場合、
口やかましく指摘しないと気がすまない性格だった。
母の美容院も、まず家事全部、炊事洗濯掃除に育児、
すべて完ぺきにこなした上で、なおかつ時間に余裕があるならば、
その余裕の半分でやってもいい、くらいに思っていたに違いない。
残りの半分の余裕は、更に父のために使ってほしいと思っていたはずだ。
何よりも、母はまず父のために存在せねばならない、そう思っていたはずだ。
父は帰ってきてまず母を責め、母はずっと強気に弁明していた。
それが僕の子守唄だった。